Home モデル 右足切断で12歳で引退したキッズモデル 義足で再デビューするまでの空白の6年間(カンパラプレス) – Yahoo!ニュース

右足切断で12歳で引退したキッズモデル 義足で再デビューするまでの空白の6年間(カンパラプレス) – Yahoo!ニュース

6 second read
0
180

 難病によって右足を失ってから6年──。3歳からキッズモデルとして活躍し、アイドルとしても活動していた海音(あまね)さん(18)が、8月25日にファッションショーのモデルとして再デビューする。

 小学6年生の時に患った血管の難病で、引退に追い込まれた。右足は壊死して真っ黒になり、一時は死の淵をさまよった。手術で右足を切断した後も、友人には義足を隠し続けていた。その海音さんが「義足モデル」として再デビューを決意するまでの、長い道のりを聞いた。

 3歳でモデルの仕事を始め、ダンススクールに通い始めたのは10歳の時。すぐに関係者の目に止まり、アイドルグループへの参加をスカウトされた。キッズモデルとしては、東京トップキッズコレクションに出演。アイドル業では月1回のライブを重ね、競争の厳しい世界で着実に成功への階段を駆け上がっていた。

 海音さんは、小さい頃からモデルの仕事をしていたことについて「小学校に入る前から、カメラの前だけではいつも笑顔だったそうです。撮られるのが好きだったんでしょうね」と話す。

 そんな日々が、突然終わりを迎える。小学6年生の時、指先が紫色になった。鼻血が頻繁に出るようになり、手足の関節の痛みが止まらない。夜になると、「痛い、痛い」と悲鳴をあげるようになった。

 複数の病院を受診するも原因は不明。ついに歩けなくなり、右足の指が壊死を始めた。小学校の卒業式にも行けず、体重は28キロまで落ちた。

 病名がわかったのは中学校に入ってから。子供の発症は珍しい「多発血管炎性肉芽腫症」という難病だった。足が壊死した時は相当な痛みであったことは想像に難くないが、当時のことについて海音さんに聞くと、意外にもこんな話をする。

「病気の時のことって、ほとんど覚えてないんです。右足が真っ黒になって、ゴリラの足みたいだなあって。そんな感じでした」

激しい痛みで幼児退行、記憶も消えた

 もちろん、そんな余裕のある状況ではなかった。難病に苦しむ娘を看病した母親の矢野奈美さんは、闘病生活をこう振り返る。

「あまりにも体が痛くて、海音が赤ちゃん返りしたんです。いつもおんぶと抱っこをねだられて、寝るときも一緒。つらくて精神的に耐えられなくなって、記憶を消してしまったんだと思います」

 病名が判明したことで、効果的な治療も行われるようになった。しかし、壊死した右足は元に戻らない。中学1年生の夏、手術で切断をせざるをえなくなった。奈美さんは言う。

「右足を切断した日も心配でしょうがなかった。それが、手術が終わったら、私に『アイス買ってきて』っ笑って言われたんです」

 海音さんにすれば、右足の切断を受け入れる理由があった。右足を切断すれば、車いすやベッドの上の生活から、自分自身で歩けるようになる。そのことの方が“希望”だった。

「手術から1週間ぐらいで練習を始めて、3カ月かかるメニューを1カ月で終わらせました。先生も『こんな人は見たことない』って驚いてました(笑)」(海音さん)

 それほど自分の足で歩くことが楽しかった。退院して自宅に戻ってくると、自転車に乗り、これまで制限されていた走ることにも挑戦した。今では、一見しただけでは義足で歩いていることがわからないほどだ。

 ただ、モデルの仕事に復帰することは積極的にはなれなかった。薬の副作用で、一時は体重が30キロ近く増えてしまい、写真を撮られることも避けるようになっていた。「義足は隠すもの」と思っていて、友人には義足であることがわからないように暮らしていた。

 女子高生ミスコンに誘われたこともあった。しかし、最終選考の前に合宿があることがわかってあきらめた。宿泊すると、周囲に義足であることがわかってしまうからだ。

Let’s block ads! (Why?)


Source link

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Check Also

伊藤健太郎釈放の署は警備強化 ユーチューバー対策 – ニッカンスポーツ

警視庁東京湾岸警察署から釈放されマスクを外す伊藤健太郎(撮影・中島郁夫) 29日に自動車運転処罰法違反(過失傷 … …